葬儀業社から仕事をもらう葬儀付帯業社とは
わたしは30歳男性の自由業だ。前職は葬儀付帯業社に勤めていた。葬儀業社ではない。葬儀業社から注文をうけ様々なものを作成する会社だ。
提灯、看板、水引幕などを作成する。当然だが葬儀というものは突然発生する。しかも通夜に絶対に間に合わせなくてはならず失敗も許されないため、時間とクオリティがハイレベルで常に要求され続ける現場だ。後述するが業務の幅もかなり広い。そのくせスキルとして残らない。
突然有名人クラスの大きな仕事がくる場合もある。そうなると夜を徹して業務にあたることもある。通夜当日の朝に注文がきて夕方までに納めなければならず、冬場など案件が立て込んでくると休憩などとることなどできない。
労働基準法などと昨今騒がれているが正直笑ってしまうような職場であった。昼食時にも電話や外からの連絡にでなくてはならず、あんなものは休憩と呼べない。そのくせしっかりその分給与からひかれているのだ。
有給などとれるはずもなくどんどん消滅していた。
葬儀社と密に繋がるからこその裏話
葬儀社がお客様なので、当然、頻繁に顔をあわせていろいろな裏話を聞くこともある。よく寺・葬儀社・病院が結託していると言われているが全くその通りであり、病院と葬儀社は密接につながってやりとりしている。
「もうすぐ亡くなりそうだから準備しといて」などはざらである。「生き返ったからあの注文なしね」なんてこともある。おおきな病院になると数年ごとに契約葬儀社を入札でつのる。
病院の建っている地区の葬儀社が競争するわけだが、その期間だけマンションをかりて事務所を作る葬儀社もいるという。
顧客の取り合いなのだ。
また「おめでとうございます」は禁句であり、お正月の挨拶も「今年もよろしくお願いいたします」だった。しかしそういった慣習も最近では薄れてきていた。
むしろこういう業界にいる故、死に対する倫理観などが薄れてくるのだろうか。ある大手葬儀社に納品にいったときなど葬儀がないのをいいことにホールのマイクで社員みんなで仕事中にカラオケしていた。遺族が知ったらどう思うのだろうか。
葬儀業界独自の習慣と問題
よくカレンダーの友引は「友を引く」から葬儀をしないと言われる。
まさにその通りで友引に葬儀をしない、ということは前日に通夜をしないということで友引の前の日は注文がなく「引き前」と呼ばれる。
それでも最近は1日葬や家族葬の影響で注文が増えてきたのだが。
その引き前を利用して、在庫を確保したりするのだ。
葬儀の物品は基本的に使い回しができないので、この日を利用して溜め込んでおく。例えば頻繁にでる提灯用の家紋であったり、町にだす看板の修理や、インクの貯蔵を行うのだ。
しかしこういったものは消耗品であり、長期的な投資ではない。
どうもバブル期にできた会社だからか、長期的に有益なものに投資する体質ではなかった。例えば「毎日10分短縮できるシステムを1日使って作成する」などの投資を行っていなかったのだ。つまりどこまで行っても自転車操業であり、結果体質的に現状維持にとどまり売上は下がり続けた。
葬儀業界全体は団塊の世代によって件数が増えていくと言われているが、反面、家族葬の増加で単価が下がっている。忙しいが儲からない職業になりつつあるのだ。
葬儀付帯業社の商品の多さ
葬儀に関する備品は意外と多い。
提灯や幕などはその日のうちに作るので独特のスキルが要求される。
他にもテーブルや祭壇、テントなど枚挙にいとまがなく、自社カタログに載っていない商品まである始末。
そしてなにより宗教・宗派ごとに違っている。
ただでさえ覚えにくいのに社の方針が「見て覚えろ」だから無理がある。一般人で木魚と木柾の違いがわかる人がどれだけいるだろうか。(ちなみにこれは宗派の違いで日蓮宗などが使う)
八足・リン・導師机・燭台・まこも・矢来・鯨幕etc…専門用語のオンパレードである。
そして宗教、神道・キリスト教・仏教・新宗教。最近では新宗教独自の葬儀も増えてきていた。神道や無宗教も増えてバリエーションが増えていく。バリエーションが増えると必然的に作るものの幅も広くなる。
商品数が増えるのに件数はほとんどかわらないのだから効率が悪くて仕方ない。
創価学会や幸福の科学ならまだ信者が多いからいいが、大山ねずの命神示教会なんて年に数回しかこないのにストックしなきゃいけない。
そんなウチの会社の問題点
葬儀というものは実は時代によって大きく移り変わる。
現在の仏教主体の葬儀が定着したのは明治に入ってからだ。その後バブル期に大きな葬儀が増え、戒名も習慣化して葬儀費用が数百万円規模になってきた。
ところが最近の不況や報道でそんなぼったくりが表にでて、逆に10万〜葬儀ができることがわかり低価格になった。これからたくさん人は死ぬのに、単価が安くなっていく。
どうもこの業界はかたくなで古臭いところがあって、なかなか挑戦というものをしない。人の死というセンシティブなものだから仕方のないところではあるのだけれど、商売である以上そうも言っていられない。
つまり、今こそシステマチックに変革を売ってでなくてはならなかったのだ。
しかしながら下がり続ける売り上げを前にすっかり守りに入ってしまい、挑戦を忘れた。悪化が最悪になるまでに改革のために投資すべきだったのに現状維持ばかりしていたのでどうやっても回復できないところまできてしまっていた。
もはや身動きがとれなくなって、自分たちの葬式を待つような状態になってしまったのだ。
「本音の窓」管理人からのコメント
通夜や葬式に参列したことはあっても、喪主を行う経験は人生に1度きりだったり、多くても数回の人が多いはず。
だから葬儀屋の言いなりになって、あれもこれもとお金がかかってしまう場合があると聞いているけど、最近は家族葬でこじんまりと終えるケースが増えてきているんですね。
今回は葬儀付帯業者の視点からの記事でしたが、管理人の私は葬儀付帯業者なるものがあることを初めて知りました。
葬儀屋が全部持っていると思ったら、下請け業者に発注していたんですね。
そして、病院との繋がりの部分は結構衝撃的でした。勉強になります。