大学で首席となった経験
私は今年68歳になる年金生活者である。
62歳で会社を早期退職し、関東のある国立大学3年に編入学してから、もう6年が過ぎた。そこで、これまでの学生生活で人に自慢できる経験を綴ってみたいと思う。
最初は3年の時、首席になったことだ。私は教養学部に入ったのであるが、この大学では、2年と3年の成績により毎年首席の人を表彰するのである。それは5つある専攻課程毎に行われる。私は東アジア文化を専攻で、最初、授業についていけるかどうか不安だったが、とにかく一応真面目に授業に出たのであった。幸い全科目とも評価は「優」であった。
この3年の時の成績が、4年の6月になって首席として表彰されるのである。そして6月のある日、一緒に編入学した女性が私の学生番号を聞くのであった。何だか分からず彼女に告げたら、私が首席だというのである。彼女は自分が首席になるだろうと思っていたらしく、首席発表の掲示板を見たら、自分の学生番号でなかったので私に聞いたのであった。
学部の首席でなく同一専攻の中の首席ではあるが、私はこれで、その昔、勉強しなかった若き大学時代の悔いを晴らすことができたと思った。
卒業論文が優秀論文に選ばれた経験
続いて卒業論文が優秀論文に選ばれた経験である。
私は4年の夏から1年間、韓国へ交換留学した為、卒業は1年遅れたのである。しかも帰国してから卒論を出すまでわずか4か月位しか時間が無かった。その為、とにかく文献50冊を4か月かけて読み、何とか締切に間に合わせたのであった。
そして正月が明けた頃、指導教授からメールで私の卒論が優秀論文に選ばれたと知らされた。
なにせ、若き日の卒論は共同研究で何もしないに等しい卒論だったので、事実上、初めて自分で書いた論文である。誤字脱字の多い論文ではあったが。自分の関心のあることについて、とにかく論文らしく見えるように努力はした。
この優秀論文も専攻毎に選ばれるので競争率は高いとは言えない。しかし、40年間の社会人生活を経て、大学に入り直し、自分の子供より若い学生に交じって、自分なりに努力したことが一応認められたことは、私の人生にとって喜びであり、大学に編入学した私の進路は間違っていなかったと思ったのであった。
韓国へ留学し韓国の大学から奨学金をもらった経験
韓国に留学した時の経験だが、その大学には留学生に対する奨学金制度があった。私はこの年では無理だろうと思ったが、万が一ということもあると思い、指導教授から推薦状をもらって一応申請しておいたのだった。
韓国での留学生活が始まり、毎日目新しいことに出会う生活の中で、韓国は物価は安くしかも円高だったので、1万円の価値は日本にいる時よりも有難く感じた。一番金がかかったのは下宿代で日本円にして月4~5万円くらいかかった。
韓国到着以来、韓国の銀行に口座を作りキャッシュカードでATMからお金を引き出し生活を続けていたのである。経済的に決して余裕のある生活ではなく、出費には無駄使いしないよう注意していた。
ところが、ある日、キャッシュカードでお金を引き出したら、どうも残高が一桁多いのである、2,3度見直したがやはりどう見ても一桁多かった。
しばらく考えて、ひょっとしたら奨学金ではないかと気付き、下宿に帰って通帳を持ってきて記帳してみたら、やはり奨学財団からの振込だったのであった。それは日本と違い貸付でなく給付であった。
生まれて初めてもらう奨学金に私はただ感激するばかりだった。
留学先の大学新聞からインタビューを受け第1面に掲載された経験
日本の大学で若者に囲まれて勉強するのには慣れており、留学先でも違和感なく韓国人あるいは他の国の留学生とも話をしていたのである。
しかし周りから見ると異様な光景に見えるらしい。それを知ったのが、留学先の大学新聞からインタビューの申込みを受けた時である。
韓国語も英語も自信がなかったので断ったのであるが、日本語の通訳を付けるというのである。そこまで言われては断るわけにもいかず、インタビューを受けることになった。
インタビューはキャンパスで見かける白髪のおじいちゃんが何故ここに居て、何を考えているのか大いに気になっていた事から出たものであった。
インタビューは私ともう一人オーストラリア人の私より少し若い男性の二人が対象だった。私は日本語の上手な職員を通して自分の考えていたことを十分伝えたることができた。
大学新聞は月一回、毎月1日に発行されるのだが、韓国語の授業の時、開始早々、先生がいきなり、「今月の大学新聞を見ましたか?」と聞くのであった。新聞を見ると第1面に私のカラー写真が大きく写り、韓国語で『韓国時代劇が好きで!』という見出しがあるのであった。生まれて新聞に載った体験にただびっくりしたのである。
韓国でハングル書道教室経験
韓国の下宿のおばさんが私に、区役所の主催する文化教室のチラシを見せて、「料金が安いからどう?」というのであった。
私は大学で若い人達とばっかり付き合っているが、街に出てもっと年長の人達とも話がしたいと思っていたので、どれかに参加することにしたのであった。
チラシは当然ながら韓国語で書かれていた。そこに韓国語の書き方?と言う字があったので、韓国語の作文の勉強でもしようと区役所の文化センターへ向かったのであった。そしてドアを開けてびっくり、そこはハングル書道の教室だったのである。
チラシを正しく読めなかったのだ。私は、ここまで来たからにはしようがない、よし、やろうと心を決め毎週通った。
約4か月、ハングル書道を習っていろんなことがあった。ある日は竹島は日本の領土か、韓国の領土かと詰問され、ある日は海苔巻(キムパ)とスンデブ(韓国の腸詰)のお昼を御馳走になり、私の韓国語は不十分であるが、韓国人の中に日本人一人という貴重な経験をすることができた。最後の日、先生達が昼飯を奢ってくれ、別れるのが寂しいと言うのであった。