どうすれば人生を健やかに全うできるか?

私は77歳の男性です。

文芸春秋の今年の8月号に阿川弘之氏が「老残の身」と題する一文を載せられた。

「あらゆることが面倒くさくなり、会合にも出たくなくなり、言葉一つかわしたくない」から始まり、「今日は来客がなく電話もかからなかったから本当に良かった」とある。

89歳6か月にもなるとそうなるのかもしれない。その上「毎日寝そべって本を読んでいるので足腰の筋肉が衰え歩きづらい」そうだ。

海軍将校だったからさぞかし若いころは鍛えぬいたであろうに、どうも晩年は自堕落を決め込んでおられるようである。

人体実験の結果得られた貴重な経験

翻って男ばかり5人の私の兄弟4人は、みな身体の鍛錬を怠ったために次々にダウンしつつある。つまり、長兄は3年前に81歳を目前にして昇天し、次兄は80歳の半年前に転倒して頸部の脊髄を損傷し車椅子生活となった。72歳の弟は脊椎管狭窄症で歩行がたどたどしく、67歳の末弟は脳梗塞で倒れた経験があるだけにこの先も不安だ。

このように身体を鍛え続けていないと老化が加速し、命の残り火が消えかかることとなる。どうやら兄弟にとって「運動を怠り続けた結果の寿命」は80歳前後のようである。

つまり、私がもしも60歳から続けてきた日課としての1日1㎞の水泳を励行していなかったら、まず間違いなくあと2年前後でこの世におさらばすることになっていたに違いない。

そうなれば、今頃はわずか700日前後の残り少ない日々をどう過ごせばいいのかで頭を悩ませていたことであろう。こうした現実はこの歳になって初めて明らかになったことであり、10年以上前には想像だにしなかったことである。

つまり、身体上あらゆる面でほとんど変わることがなかった男ばかり5人の兄弟のうち、4人がごくごく普通の生活をしており、せいぜい1日3000~5000歩程度しか歩かなかったのに対して、一人だけがこの18年間黙々と理想とされる運動をこなし続けてきたことになる。その結果、80年かけて具体的な答えが初めて出てきたのであるが、これこそ見事な人体実験と言えるだろう。

齢78歳近くになってもまだまだやりたいことはあるし、ご講演や執筆の依頼は後を絶たない。それだけに少なくとも後20数年間は岳父同様、社会のお役に立つ仕事をしたいものである。

亡くなる前にはいろいろな病気や事故がつきもの

亡くなるまで病気も事故も何もなくて、あっという間に亡くなられた方もおられるが、今までにいろいろ聞き及んでいる限り、亡くなる前の数年間、病気や事故が多発しているケースが圧倒的に多い。

長兄の場合には亡くなるまでの5年間に相次ぐ風邪はおろか、①転倒に伴う手首の骨折、②前立腺がん、③膀胱がん、④大動脈解離等々様々な不具合が頻発していた。特に大動脈解離では死ぬか生きるかの境地をさまよった。

後から考えると、これらの不具合は寿命が近づいてきたことを知らせる天からの報せだったように思われる。つまり、死神は突然訪ねて来たりはせずに、幾度となく近づいてきて「もうそろそろだよ」と警告を発してくれるようだ。

風邪をひきやすいということは、身体が弱っている証拠であり、これもまた重要な警告である。また、病気をするとその都度薬を渡されるし、高血圧や高血糖なら直ちに対処薬を処方される。

こうして病が頻発する度毎に薬がどんどん増えていく。この薬の山こそが最大の曲者である。80歳を目前にして他界した母親は食事の度毎に片手いっぱいの薬を飲んでいた。いや、飲まされていたのだ。医者にとっては薬を処方すれば儲けになるし、患者も薬を欲しがるのでついつい野放図に渡してしまう。

薬そのものの副作用は怖いが、それよりもあちこちの病院で渡される薬類の副作用の相乗効果の方がはるかに恐ろしい。結局、母親は薬に殺された。私自身はビタミン剤以外の薬を飲むことはなく、痛み止めなど絶対に飲まない。

そんな状態を続けられるのもすべて水泳のお陰だと思っている。生前長兄には幾度となく運動を勧めたのだが、どうしても聞き入れてくれなかった。しかし、余命いくばくもないベッドの上でしきりに反省を繰り返し「回復したら君の勧めに従って必ずプールに行くよ」と約束してくれた。しかし、後の祭りであった。

結局、神はこの男を救ってはくれなかった。それから僅か1週間後、彼はあっという間に息を引き取った。神は冷淡であり、特別配慮などしてはくれない。

ところで人は薬に頼りたがる。夜眠れないとすぐに睡眠剤に手を伸ばす。

そんなことをしないで、寝る前に1時間ほどジョギングをしたうえで風呂でさっと汗を流せば、それですぐ済むはずである。肩こりや首こりについては、テレビでの解説によると1日おきに両手を30回ぐるぐると回すとぐんと楽になるとのことだ。ところが、40分間の水泳では両手をそれぞれ約1000回も回しながら力いっぱい水をかき続ける。そんな運動を繰り返せば肩こりや首こりなど起こるはずもない。

結局、医師に頼り、薬をあてにしつつ、自助努力を一切しようとはしない根性が自分自身をダメにしてしまっているのである。そうではなくて、もっと自分い軸足をおいた将来対策を立てないと、将来が不安である。

なぜ運動がそれほど身体に効くのか?

人の寿命を決定づけるのは年齢と身体の状況ではなくて、血管にあることは今ではよく知られている。人は生まれてからの年数で年齢を数えるが、命と直接かかわる年齢は身体年齢ではなくて「血管年齢」なのである。

病院に行って頼めばいつでも血管年齢を調べてくれる。70歳の人でプラスマイナス20歳の開きがある。つまり、50歳から90歳に分布されることとなる。人は90歳以上で亡くなった方を「長寿を全うした」と評価し、50歳代でみまかれた方に対しては「若死にだ」と表面的に判定する。しかし、血管年齢を基にすると、それぞれが順当な最期だったということになるケースが多いと言われている。

つまり「寿命の判定基準」は年齢ではなく、血管年齢で判断すべきである。

厚生労働省よりも前の厚生省は健康を保つ運動の基準として次のように定義した。つまり、40歳代で体重60kgの男性を基準として、買い物や散歩なら3時間20分、自転車なら2時間、ゴルフなら1時間40分、体操なら1時間25分、階段の昇り降りなら1時間6分、水泳なら38分の運動を週に3回行うのが理想だとされており、これだけの運動量を確保するように呼び掛けている。

運動をすると安静時の5倍の速さで血液が血管内を勢いよく流れる。これに伴い、血管そのもののしなやかさが保たれ、弾力性に富んだ血管を維持できる。

そのうえ、血液が通る内腔も十分な広さを常に保つようになる。こうなると当然のように血圧も安定する。ところで自分自身の血液の流れを直接映像でみようと思えば、眼科で眼底の映像を映してもらえばよい。真っ黒な背景に赤い血の流れが鮮明に浮かび上がる。通常、70歳代の後半なら細くなっていく血管は周辺に行くに従い霞んでしまい、結局画面の周囲は黒一色に覆われるが、20歳代なら細い血管が円の周辺にまできちんと達している。

78歳近い私が20歳代並みだったのを見て医師が感心するように呟いた。「毎日1㎞泳ぐことがこれほどまで血流に影響するとは思いもよらなかった」と。ちなみに私の日中の平均血圧は70台の前半から110台の前半であり、半世紀以上全く変わっていない。

友人は親に感謝せよというが、他の4人の兄弟はみな血圧降下剤を服用しており、例外は一人だけである。それだけではない。私は甘いものには目がないが、食べたいだけ食べても血糖値はびた一文上がらずいつも一定の値を示してくれる。

また、辛いものが大好きで塩も好きなだけかけるが、それでも血圧は少しも上がらない。つまり、現在に至るまで80年近い間、好きなものを好きなだけ思う存分食べられる。こんなことができるのも飽くことなく続けている水泳のお陰だ。

すなわち、懸命に努力し続けておれば、苦しいばかりではなく、それなりのリターンがあるということである。

血流が身体に及ぼす影響を検証する

血圧降下剤はそのもの自体が問題だと言われているし、一度飲みだしたらやめられないので極めて厄介でもある。また、飲み忘れると一挙に血圧が上がる危険を伴う。

血管の老化の度合いは、血管が①硬く、②厚く、③血管の内腔が狭くなるという3つの要素によって計測される。

この老化と正比例しているのが「動脈硬化」である。

脳梗塞、心筋梗塞等々の脳と心臓の血管異常から引き起こされる多種多様な病気や大動脈解離などはすべて動脈硬化に起因している。この引き金になっているのが、①高血圧、②糖尿病、③高脂血症であり、④喫煙、⑤暴飲暴食、⑥動物性脂肪の摂りすぎ等々である。

特にタバコを吸っていたらいくら運動してみても無効だとさえ言われているほど身体に対する悪影響は並外れて高い。つまり、喫煙は殺人行為そのものなのである。

それは自分自身を傷つけるだけではなく、近くにいる人にまで悪影響を及ぼす迷惑行為である。そんなことを喫煙者はよくわかっているがやめられない。

つまり、自制心が決定的に不足しているのである。人間が万物の霊長であり続けようと思えば、己をコントロールして理想を追求することが絶対的な条件となるだけに、自制心がなければ人間としての資格を失うこととなる。

アメリカには「デブ」と「喫煙者」を雇わない会社がたくさんあるが、それは上記のような考え方に立っているからである。日本では医療費の負担が極端に高く、財政赤字の大きな原因となっている。ところが野放図にタバコを吸い続け、そのために病気になった人まで保険でカバーしている。これでは金がいくらあっても足りるはずはない。自制心のなさからタバコを吸い続けた人からは保険料を2~3倍は取る必要があるのではないだろうか。

ところで、血管の総延長は約10万㎞であり、その数は1500億本~1600億本にも及んでいるが、そのうちの大部分は毛細血管である。これほどまでに身体中に血管が張り巡らされているのは、全身の細胞に絶えず酸素と栄養を送り届け活性化させるためである。外界から遮断されている身体内部の細胞のうち、99.86%は毛細血管のお陰で息づいている。

上に掲げられた理想的な運動を行えば、安静時の20倍以上もの血流が全身を駆け巡り、あらゆる部位の細胞を活性化してくれる。ところが何もしないでじっと寝そべってばかりいると、毛細血管のうちの9割には血が流れない。寝たきりになると急速に衰えるのはこのためである。

つまり、表面上は生きていても、身体の9割は既に息絶えているのである。ごくごく普通に動き回って生活をしている場合でも、毛細血管のうちの半分には血が通っていない。そんな状態をいつまでも続けていると、血の通わない毛細血管は立ち枯れてしまい、周りの細胞も息絶える。この結果、10年間必要十分な有酸素運動をやり続けた人とそうでない人とでは決定的な差があいてしまう。

自助努力こそがあなたを活性化する

外出に先立ち、女性はよく顔に色々なものを塗りたくって本当の自分の姿を隠そうとするが、歳と共にその度合いはますます激しくなっていく傾向がある。

なぜなら、通常の生活をしている女性の顔の皮膚を形成している細胞のうちの半数には酸素と栄養がいきわたっておらず、肌の衰えがはっきりするからである。

週に3回以上理想とされている運動量をこなしていると、素肌でも顔はピンク色に染まり「血色が良いですね」と褒められるようになる。従って、活き活きとした肌を人に見せたいのならそれ相応の運動を続けて自然の皮膚を作り上げるようにすればいいのだが、億劫な人たちは手っ取り早く白粉でごまかそうとする。そんなことをしていても、半分の細胞に血を通わせなかったら、いずれ近い将来見るも無残な顔になってしまいかねない。

90歳を超えた中曽根康弘氏がいまだにピンピンしておられるのも、吉永小百合さんが70歳に近づいてもまだ50歳程度にしか見られないのも、水泳を日課にしておられるからだという事実は案外知られていない。

つまり、綺麗な状態を保ったり、ボケない頭を維持するために、人はそれぞれそれなりに努力しているのだ。吉永さんの日課は500mの水泳だが、中曽根さんが泳ぐ距離については寡聞にして知らない。彼は海軍時代の習慣をいまだに大事にしておられるが、阿川さんは「海の男」の習慣をかなぐり捨てて、静かに横たわっておられる。

ところで最近グルコサミンの広告がやたら目に付く。宣伝の決まり文句は「血圧の高い人はぜひどうぞ」とある。つまり、血圧を薬で下げようというのである。

しかし、自らを鞭打って運動によって血の流れを意識的に促進せしめ、血流を良くし、血管を柔軟にすることによって全身の細胞を活気づかせ、そうした相乗効果のもとで血圧を正常化するという努力をしないまま、薬だけを飲んでみても全身の細胞は活性化しない。最もいけないことは「これさえ飲めば大丈夫だ」と思い込むことである。そう思い込んでしまうと他力本願がすっかり定着してしまい、自分自身の努力で問題を解決しようとはしなくなる。薬の販売広告は完全な詐欺行為であり、一旦これに引っかかると、それこそ元も子も失うこととなる。

血液によって十分な酸素や栄養が組織に行き渡らなくなると、組織の機能が次第に衰えてくる。特に脳と目には格別多量の酸素を必要とするため、運動量が低下すると、目が見えにくくなったり、呆けが始まったりする。これこそが老化現象なのであり、その度合いは活動している毛細血管の数に反比例する。

人間は「動物」の一種だが、動かなくなれば動物ではなくなる。動物でなくなってしまえば当然のように人間でもなくなる。この結果、生命は尽き果てざるを得なくなってしまうこととなるのである。つまり、人間が人間らしく生き抜くためには、己の意思を明確にしたうえで、己に鞭打たなければならない。

寿命は予めきめられてはいない

寿命は「予め与えられたもの」「不変なもの」ではなく、いい加減に生きればどんどん短くなるし、努力すればいくらでも伸ばせるものなのである。そうと分かれば日々努力するに限る。努力して寿命を延ばせばいいことがたくさんある。

まず第一に健康な状態のままで長生きすることができる。第二に長寿を迎えると、理想にしている「PKK」が現実のものとなる。PKKとは、「ピンピンコロリ」の略称であり、元気旺盛なピンピン状態から一挙にあの世へ行けるということを示している。

50歳代や60歳代で病に倒れると、体力に十分な余力があるためになかなか息を引き取ることはできず、いつまでも長患いが続き、本人も苦しむが、周りにも途方もない迷惑をかけ続ける上に生活上困ることすらある。

しかし、90歳を超えてもなおピンシャンしている人の多くは、寿命が近づいてきているためか、コロリと亡くなるケースが後を絶たない。こうなれば本人も楽だし、はたへの迷惑も一段と軽減される。また、この年齢まで生き抜くと残された者たちにはお別れの悲しみがぐんと少なくなる。つまり、いいことづくめとなるのであり、だからこそ推奨に値すると強調するゆえんである。

ところで、「健康で長生き」を主張するからと言って無条件で長く生きたいとは思っていないし、そうするつもりもない。長生きするための条件としては「世間の役に立つ限り」ということである。

それだけに、ただ生きているだけでは何の意味もない。特に意識不明のまま人工呼吸器で生き続けるのは無意味でもあるし、はた迷惑でもある。「リビングウィル」という制度があり、判断力のある間に届けておくと意識不明になった時に人工呼吸器を付けずに自然に他界できる。

人間は自然に生き、自然に死ぬべきものであり、植物人間までをも生かし続けるのは自然に逆らう行為である。ましてや、高齢者の医療費がうなぎ上りとなり、財政を圧迫するにおいておやである。

従って、もしも本人がそして家族たちがどうしても生かし続けたいというのであれば、国費の補助は一切行わず、全額自費でしてもらうように制度を改めるべきであろう。そうなれば植物人間をどれだけ長く生かし続けようとも文句をさしはさむ必要は全くない。

ところで、私はまさかの場合に備えて有料老人ホームへの入居を決めている。家内と散々探し回った末で千葉県八街市の「白松の郷」に決めた。このホームの3000坪の敷地の花壇の設計を全部任せてもらい、植える花を決めた。造成費用と植木の代金すべてを負担すると申し出たが、丁寧に断られた。しかし、植木には植樹記念として私の名前が刻まれている。

二人のどちらかが倒れても、この広大な花畑が見下ろせる南向きの60㎡の部屋に収まることにしている。樹木が植えられてから既に3年の月日が経過した。これからも私たちが大好きな果樹と花樹がどんどん成長してくれるだろう。

活き活きと生き抜くための運動

私が水泳にのめり込み始めたのは60歳時点であった。付き合っていた先輩が幾度となく水泳を勧めてくれたが、なかなか踏み切れなかった。それでもこの人の思い込みと実行力には脱帽するばかりだった。丸2年間しつこくプッシュされた挙句の果てに、ある日自分も挑戦しようと思い立った。

そこで、友人やワイフに対して水泳励行宣言を行った。

一旦宣言してしまえば、それを守らない限りさげすまされることは必定であり、惨めな日々を送らざるを得ない。そこまで自分を追い込めば定着すること間違いない。

しかし、この当時は日々の一定量以上の有酸素運動がこれほどまでに身体に良いとは思いもしなかった。ただ、己を怠惰にしたくないために、癌と怪我の保険を除く健康保険には一切加入せずに、病を寄せ付けない生活をしようと心がけてはいた。

また、タバコを吸っていた38歳のある日、購入した血圧計で脈拍を計っていたところ、タバコを一服吸っただけで脈拍が100/分を超えた。1kmを泳いだ後でも100以下だったのに対して、じっと座っている状態でタバコを一服するだけで100を超すということは、明らかに心臓が喘(あえ)いでいるのだと判断した。

その瞬間からタバコとの縁を絶った。これと同様、適切な運動をこなさないでいると身体中の毛細血管を錆びつかせ、全身の筋肉さえ委縮させてしまう。つまり、運動する体力も時間もあるのにやらないような人たちは、みずから「老い」を手元に呼び込んでいるということができる。

私はこの広い世界の中で自分のもとに嫁いでくれた家内に限りない感謝の気持ちを抱いている。色々とお世話になった報いのためにも、1日でも家内より長く健康で生き抜き、介護してあげた後で見送ろうと思っている。

そのためには何としてでも長生きしなければならない。その思いを込めて、今日もまた黙々と1㎞を泳ぎ続けている。

この一文はこの文章を読まれる方々に「活き活きとした人生」を送って頂きたいために書き上げた。人間誰しもつらいことを毎日励行し続けるのを億劫がるが、幾度となく勧められ、プッシュされているうちにはスタートするものである。

この文章もゴミ箱直行ならそれまでだが、どこかに保存され、折に触れて目を通してもらえれば、いずれ効果を発揮してくれるのではないかと密かに期待をつないでいる。

80歳に近づけば、みまかる友人も多いし、入院される知人もひっきりない。その上、ベッドでじっと安静にしておられる方も増えてきた。その人たちから「しまった。自分も運動すべきだった」という声を聞く機会が増えてきたのは悲しい限りである。

この一文は「後悔先に立たず」という無用なことにはならないように心がけ、病に倒れてからの「リハビリ」ではなく、病を寄せ付けない「プリハビリ」、つまり、元気なうちに極限までの運動を実践してもらおうと願う筆者からの熱いメッセージである。

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